ふと、面白いことに気づきました。
人は、過去に生きることは出来ません。未来もいずれやってきますけれど、それは今であって未来に生きることも出来ません。
そう、「今を生きている」ことは、改めて言うまでもなくあたりまえのことです。
と、最近まで思っていました。そしてこれまで何も不思議に感じることはありませんでした。年表にすれば、過去はものすごく分厚い(地球規模で言えば46億年、宇宙規模で言えば138億年の)歴史があって、これまたいつが終わりなのかわからないくらいの、おそらく過去より分厚い歴史となるであろう未来が訪れるのだろうと思います。
そして、その分厚い過去と未来の間に、薄い「今」が挟まれています。
ここで疑問が生じます。この「今」とはどれくらいの(時間的な)厚みを持っているのでしょうか。昨日(過去)と明日(未来)の間に今日があります。しかし、気がつけば椅子の上で意識を失っていた(居眠りしていた)今日の出来事も過去のことになっています。
と、この「なっています。」と書いた事すらも過去になっています。
では、いつまでが未来で、いつからが過去なのでしょうか。そして、それに挟まれている「今」とは。
おそらく無限に小さい時間の世界に入っていくのだろうと思います。時間というものが切れ目のない(量子化されていない)連続的なものだとすると、果たして「今」を定義することができるのだろうかと思うようになりました。過去と未来の境界面が「今」としてあるだけではないのだろうか。そうだとすると、ずっと繋がっている(連続的な)時間から「今」だけを抜き出して定義できるのだろうかと…。そう考えていました。
ここで少し最新の物理学の力をお借りすると、最小の規模のことを「プランク・スケール」といい、時間については、プランク時間というのだそうです。
最小の時間は、「プランク時間」とよばれていて、相対性や重力や量子が絡む現象の特徴となっているさまざまな定数を組み合わせれば、その値を簡単に計算できる。そしてその結果、1秒の1億分の1の10億分の1の10億分の1の10億分の1の10億分の1、つまり10の-44乗秒が得られる。
「時間は存在しない」Carlo Rovelli著
紙に絵を描いて、次の紙に少しずらして絵を描きます。これを続けて行き、パラパラめくると描いた絵が動いて見えます。時間が過ぎると言うことは、1枚1枚が1プランク時間に相当するこのパラパラ漫画をめくるようなものなのでしょうか。
もし、そうであるとするならば、「今」とは、この時見ている1枚の絵のことを指すのだと思います。これからめくるページが未来で、めくり終わったページが過去に相当するのでしょう。
そこで、また疑問が湧いてきます。
そのページがりんごをかじっている絵であれば、りんごを食べている動作中であると想像できます。しかし、青い色の真ん中にある野球ボールでは、バッターが打ってスタンドめがけて飛んでいくボールなのか、青いテーブルの上に置かれたボールなのか区別がつきません。つまり、動いているのか止まっているのかの識別情報が、この1枚の絵にはありません。
言い換えると、「今」を突き詰めると、「今」という情報からだけでは動き(出来事)はわからないということになります。
であるにも関わらず、「今」にしか生きられない我々人間はスタンドめがけて飛んでいくボールであると認識することが出来ています。それは、なぜでしょうか。
それは、「今」のページに至る直前までのページの情報を「記憶」しているからだと思います。動作(出来事)を識別できるのは記憶できる能力(もしくは、ページ間の差分を取れる能力)を持っている生き物にのみに与えられた能力なのかもしれません。
私たちが抱いている「今」とは感覚的な部分が多分にあるのです。つまり、その一部(場合によっては大部分)が脳の中にある記憶(意識)によるものということに気が付きました。本当の「今」は10の-44乗秒か、もしくは人間が感知できる最小時間のことであり、それ以外を脳の中にある情報が補完しているのだと。
こう考えるようになって、かねてから疑問に思っていた謎が解けました。
ふたりの人が今目の前で起きている同じ事実を見ても、まったく違う受け取り方をする場合があるのは、なぜだろうと思っていました。なるほど、「今」を構成している一部が記憶(意識)によるものであるとするならば、そのように180度違って現実を捉えてしまっても何ら不思議はないわけです。
視点を変えれば次のようにも言えると思います。今、目の前で起きていることの一部を自分の記憶(意識)が担っているわけですから、自分の意識次第で、同じ「今」でも、その見え方が大きく変わるということです。ポジティブな意識を持っている人にとっては、目の前で起きていることが、少しでも良いこととして見えているのではないでしょうか。もっとも、本人は意識していないので無意識と言うべきかもしれません。
旅をしていて、夜空に煌めく星たちを見て、いったい自分はいつの星を見ているのだろうかと疑問をいだき、
ここに貼ったリンクのように、考えて、考えて、そして考えました。
「時間は存在しない」Carlo Rovelli著
そして偶然読んだ本(知識)がきっかけとなって、新しい疑問の種が芽生えました。考えを巡らせることは、旅をしていることと同じように、新しい発見や気付きに繋がり楽しいです。
この本は、難しい理論を、わかりやすい(自分の頭で考える習慣のない人には難しいかもしれませんが ^^;)言葉で書かれています。自分もすべて理解できたわけではありませんが、なるほどと思う部分がたくさんありました。
そして、この本はさらに深く考えるきっかけとなりました。この本が言っていることの要旨の一部を記載しておきます。興味がある方は読んでみてはいかがでしょうか。
宇宙全体に共通な「今」は存在しない。すべての出来事が過去、現在、未来と順序づけられているわけではなく、「部分的に」順序づけられているにすぎない。わたしたちの近くには「今」があるが、遠くの銀河に「今」は存在しない。「今」は大域的な現象ではなく、局所的なものなのだ。
世界の出来事を統べる基本方程式に、過去と未来の違いは存在しない。過去と未来が違うと感じられる理由はただ一つ、過去の世界が、わたしたちのぼやけた目には「特殊」に映る状態だったからだ。
自分のまわりで経過する時間の速度は、自分がどこにいるのか、どのような速さで動いているのかによって変わってくる。時間は、質量に近いほうが、そして速く動いたほうが遅くなる。二つの出来事をつなぐ時間は一つでなく、さまざまであり得る。
時間が流れるリズムは、重力場によつて決まる。重力場は真の実在であり、その力学はアインシュタインの方程式で記述される。今かりに量子効果を無視すると、時間と空間は、わたしたちが埋め込まれた巨大なゼリーの異なる側面なのだ。
しかしこの世界は量子的であつて、ゼラチン状の時空もまた近似でしかない。世界の基本原理には空間も時間もなく、ある物理量からほかの物理量へと変わっていく過程があるだけだ。
そしてそこから、確率や関係を計算することができる。現在わかっているもっとも根本的なレベルでは、わたしたちが経験する時間に似たものはほぼないといえる。「時間」という特別な変数はなく、過去と未来に差はなく、時空もない。それでも、この世界を記述する式を書くことはできる。それらの方程式では、変数が互いに対して発展していく。それは「静的な」世界でも、すべての変化が幻である「ブロック宇宙」でもない。
それどころか、わたしたちのこの世界は物ではなく、出来事からなる世界なのだ。
「時間は存在しない」Carlo Rovelli著
自分が特に引っかかったところは、最後の一文です。
世の中の消費や価値など「モノ」から「コト」にシフトしていくと言われています。また、実際に旅をしていても、旅の興味が「モノ」(景色)から「コト」(出来事、出会い)にシフトしていくことに気づいていました。
そして、最新の物理学を研究している世界的権威が、「わたしたちのこの世界は物ではなく、出来事からなる世界なのだ」と言っていることに、何か惹きつけられるものを感じました。
もう少し考えてみたいと思います。
つづく