コラム

意識とは何だろうか(2)

以前、意識とは何だろうかというコラムを書きました。その中で、おそらくこうなのだろうという自分なりの仮説を述べました。

意識とは何だろうか意識とは何だろうか? いったい、いつから人に芽生えるのだろうか。 そして、いつ人から離れて(消えて)行くのだろうか。 ...

この年末に1冊の本を読んで、その仮説はかなり正しいのではないかと確信しました。

この本は、世界中の研究者による「人間の生まれ変わり」に関する研究を紹介したもので、それらの結果から「人の生きがい」に対する考察を導き出した本です。オカルト系でも宗教でもない人生論に関する本です。

詳細は、この本を読んでいただくとして、この世の中は少なくとも物理的な世界と心理的(あるいは精神的)な世界とから成り立っていて、この2つの世界はお互いに影響を及ぼし合うのだそうです。そして、人は死ぬと物質的な肉体は消滅するものの精神は「中間生」と呼ばれる世界に戻ると述べています。そこで今までの人生を振り返り、次の人生(修行の場)での計画を立てて、ふたたび生まれてくるのだそうです。

この本の中にも書いてあるように、この話が本当か否かは死んでみなければわかりません。しかし、本当だと信じて本当だったら幸せなことだし、本当でなく精神は無になるのであれば、「なんだ嘘だったんじゃん」と思うこともないだけなので、信じてこの世を生きたほうがいいんじゃないかというのは、そのとおりであると思います。

話をもとに戻して、この本に出てくるさまざまな研究者の研究結果から、我々の意識が中間生というステージに戻るとして、その中間生の総元締めのようなナニモノか(いい言葉が見つかりませんでしたので、とりあえずこう呼びます)は、何のためにこのような世界(しくみ)を作り給うたのか、もっと言えば、そこになぜ自分という存在を作り給うたのか、そこが今の自分としては一番知りたい所であります。

この本に基づけば、今の自分が置かれている状態や、身の回りに起きる出来事は、生まれてくる前の中間生にいる自分があらかじめ修行のために計画をしていたものに過ぎないということになります。人は、よく「神様」は何故このような仕打ちをされるのだろうと言います。ここで指している「神様」とは、生まれてくる前の自分だったということになります。その自分が、ナニモノかの大局的な意志に沿った形で、今の自分に与えた試練や経験ということになります。

意識とは何だろうか

まだまだ考える余地がたくさんありますけれども、自分の心の中の奥深いところには、連綿と続く自分の過去(前世だけでなくその前を含む過去生)の歴史が刻まれていて、その足跡や道筋を記したものを基礎として、その上に普段、見たり、聞いたり、考えたりしていることが載っている、その全体を意識というのだろうと思っています。

もう少し考えてみたいと思います。

今回、考えるきっかけをもらった「生きがいの創造 飯田史彦 著」は、悩んだり、苦しんだり、落ち込んだりと言った壁にぶつかった時や、大切な人を失った時に読むといいと思いました。

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