コラム

意識と外界の境界

自分は、ひとつの命題について長い間(数ヶ月〜数年)考えることが好きです。

例えば、時間は未来から過去に向かって流れているのか、過去から未来に向かって流れているのか

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鏡に映った自分の姿が左右逆に映るのは何故か

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誰も知らない内向きの力というものが存在するのではないかなど

見えない能力人間は様々な能力を持っています。しかも中には人並外れた能力を持っている人がいます。ピアノを超絶技巧で弾く人がいれば、全く弾けない人がいま...

このような命題をいくつか持っていて、シャワーを浴びている時間や、ちょっとした時間がある時に考えています。前世は哲学者だったのではないだろうかと思うくらい考えるのが好きです(笑)

そんな命題のひとつに、

意識と外界の境界は、どこにあるのだろうか

というものがあります。目をつぶっていろいろ考えることがあります。実際にその時に考えていること(世界)は現実の空間には存在していません。「意識」という世界です。では、その現実に存在しない「意識」という世界と現実に存在している世界「外界」の境界は、一体どこにあるのでしょうか。

言いたいことを伝えるのは難しいと思っています。もう少し具体的に話をします。

テーブルの上に物体があるとします。この物体は現実の世界(外界)に存在しています。この物体は700nmあたりの光を反射する丸い形をしたもので内部に有機酸などを含む物体です。

これが意識という世界では、赤くて甘酸っぱい味のする林檎というものになります。外界にあるその物体は、意識の世界で初めて林檎というものになるのであって、外界では林檎たりえません。赤という色も甘酸っぱいという味も、すべて意識の世界に存在するものであり、外界では700nmあたりの波長を反射するという物理特性を持つものであったり、有機酸を有するものであったりはするけれど、林檎としては存在していません。

「林檎」それは唯一人間の意識の中にのみ存在する(共通)概念なのです。真の意味で共通と言って良いのでしょうか、誰も検証していないし、しようがないので甚だ疑問の残るところではありますけれど、一応「林檎」で通用するのでここは共通と言うことにしておきます。

では、何故、このようなことが起きるのでしょうか。この意識と外界の間に境界はあるのでしょうか。あるとすれば一体それはどこにあるのでしょうか。

最近、この700nmを人が受け取った時の「赤さ」という感じの事を「クオリア」と呼ぶということを知りました。このクオリアという概念が、もしかしたら、この命題の答えに近いのではないかと思っています。

「健全な肉体に健全な精神が宿る」という言葉があります。肉体は外界に相当し精神は意識に相当するような気がします。精神と肉体の境界はどこにあるのでしょうか。

もしかしたら、死を迎えるその瞬間にその境界を超えるのかもしれないと思ったりします。

亡くなった人がいます。生きていた時には外界に存在していました。しかし今は外界にはいません。でも、自分の意識の中には存在しています。これがそう思わせる理由のひとつです。

まだまだ、この命題に関しては考えが尽きません。考えていると楽しくてしょうがないです。

意識と外界の境界は果たしてどこにあるのだろう? 

カミさんの療養を兼ねてふたりで旅に出るはずが、武漢ウイルスと悪天候でコラムを書いてばかりいるような気がします。コラムニストになるつもりはなく、早く旅のレポートを書いたり、日本の素晴らしい景色や人をまとめたいと思っております。

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