日本の素晴らしい人たち

田中正造

2020年8月22日、栃木県佐野市にある惣宗寺(佐野厄除け大師)に行きました。ここで田中正造と言う凄い政治家がいたことを知りました。政治家と呼ぶよりも人格者と言った方が良いかも知れません。帰宅後、詳しく調べましたので、ここにまとめます。

概要

田中正造(栃木県佐野市小中町(旧 下野国安蘇郡小中村)出身 天保12年11月3日(1841年12月15日) – 大正2年(1913年)9月4日)は日本の政治家です。(衆議院議員選挙に当選6回)その生涯を足尾鉱毒事件の解決にかけた人物です。事件解決を明治天皇に直訴しようとしたものの取り押さえられたことで知られています。

何をやった人なのか

正造は、栃木県佐野市小中町(旧 小中村)で旗本六角家の名主である富蔵(とみぞう)とサキの長男として生まれました。小さな頃は親が名主であると言うこともあり、それを鼻にかけるなど人並外れて強情でわがまま、自己中心的な性格でした。また、時には使用人に対して非常に失礼な態度をとることもありました。それを見た母親のサキは、正造を外に立たせるなど厳しく育てました。そのおかげもあり、正造はのちに正義の旗手として活躍することになります。それでは、その人生を追っていきましょう。

理不尽な年貢の取り立てに対する反対運動を指揮します

正造は、父である富蔵の昇進に合わせて17歳で小中村の名主となります。ところが旗本の六角家(2000石)の理不尽な年貢の取り立てに対し他の名主にも声をかけ反対運動を起こします。正造は、この運動で全財産を使い果たしただけでなく名主を免ぜられ投獄されてしまいます。

その牢獄は1m四方の寝ることも立つことも出来ない狭いものでした。この事件で正造は死を覚悟するものの10ヶ月と20日経った時に明治維新を迎え釈放されました。

上司の殺害事件の冤罪で投獄されます

その後、正造は30歳で東北地方の冷害の救助・窮民取り調べのため、江刺県鹿角郡花輪町(現 秋田県鹿角市花輪)にある花輪分局に就きます。翌年の明治4年(1871年)、正造は上司である木村新八郎が瀕死の重傷を負っているとの連絡を花輪分局の小使から受け、駆けつけて手当てをするとともに犯人逮捕に対する指図をしました。ところが医師が到着する前に木村は亡くなり、常々仕事上口論をしていること、衣服に血痕が付いていることを理由に犯人にされてしまいます。事件発生当初は疑われることもなく仕事に復帰していたものの、3ヶ月経っても犯人が見つからなかったことから当局が体面を保つためによそ者である正造を犯人に仕立て上げたと言う説があります。

正造は、様々な拷問を受けるものの耐え、木村の息子が無罪を証明してくれるまでの2年9ヶ月もの間、獄中生活を送ります。その最中である明治6年(1873年)に監獄則が制定され、それにより生命の危険がなくなると、「西国立志編」「英国議事院談」などを繰り返し朗読します。それにより外国では、民衆は主人で、お上は番頭であると言うことを知ります。この投獄期間中に政治経済への深い理解とともに政治家への興味を持つようになりました。

西南戦争のインフレを見通し莫大な財産を築き政治の道へ進みます

正造は、ここで得た経済の知識をもとに西南戦争後は貨幣の価値が下がりインフレになることを予測します。可能な限り土地を買い集めた結果、3,000円(今の金額にして1億円以上)の財産を築きます。正造は、この財産をもとに農民の苦しい生活を改善するため、また権力により味合わされた地獄から人びとを救うために政治の道を歩み始めます。

明治13年(1880年)には、栃木県会議員となり以後4回連続当選します。また明治23年(1890年)には50歳で第一回衆議院議員選挙に当選し、日本で初めての国会議員のひとりとなります。

足尾銅山鉱毒事件の解決に向けて取り組み始めます

栃木県日光市足尾地区では銅の生産が行われていました。しかし足尾銅山は江戸時代前期にピークを迎えた後、下火となり幕末から明治初期にかけては、ほぼ閉山状態になっていました。明治維新後に国営から民営化され、明治10年(1877年)に古河市兵衛が経営に乗り出します。ちなみに古河市兵衛とは古河財閥の創始者であり、古河グループには、古河電気工業株式会社、富士電機工業株式会社、富士通株式会社など有名企業が名を連ねています。

古河市兵衛の経営のもと、足尾銅山は徹底した近代化を行ったこと、明治18年(1885年)までに大鉱脈が発見されたことから東アジア最大規模の銅の産地となっていきます。当時日本の輸出品の10%を銅が占めており、その生産量の1/4〜1/2を足尾銅山が担っていたと言われています。富国強兵を進める国にとって重要な存在となっていました。

発展する足尾銅山と引き換えに地元ではさまざまな被害が起こり始めます。まず、明治11年(1878年)、明治18年(1885年)には渡良瀬川の鮎の大量死が起きます。また明治17年(1884年)頃から山の木々が枯れ始めました。しかし、足尾銅山が原因かもしれないと言う程度で原因はわかっていませんでした。

明治23年(1890年)には渡良瀬川の大洪水が起き、流れ出した土砂が堆積した田園では稲が実らないと言う事態が発生します。これに起こった農民は蜂起します。この活動の中心となったのが正造でした。

正造は、明治24年(1891年)国会の質問演説で初めて足尾銅山鉱毒問題を取り上げました。正造は国会議員を辞職する明治34年(1901年)までの11年間で220件の質問・演説を行っており、そのうち鉱毒問題に関するものが半数以上を占めています。

実際にこの被害にあった住民は1000人以上を越え、失明、内臓疾患や流産が相次ぎました。ある地区ではその年に生まれた18人のうち15人が原因不明の死産、死亡率も他の土地の3倍となるなど、生活苦からの自殺者も相次ぎました。

明治29年(1896年)までに古河市兵衛との示談交渉が進んだり、明治30年(1897年)足尾銅山に鉱毒予防工事命令が下ることなどにより表立った被害は減少していくものの抜本的な解決にはいたりませんでした。この時、正造は56歳になっていました。

警官隊との流血になる川俣事件が発生しました

明治33年(1900年)第4回目の渡良瀬川被害民による大挙請願の途中、警官隊の弾圧を受け流血の惨事となりました。正造は、自分が起こした運動が農民を救えなかったばかりか、逆に裁きの場に送ってしまったと後悔しています。この事件の審議中にあくびをした正造は官吏侮辱罪で起訴され入獄することになります。この時、新約聖書の差し入れを受け、このことが正造にとっての精神の重要な転機になったと言われています。

日本の憲政史上に残る大演説を行いました

正造は、川俣事件の後、国会で鉱毒問題に関する質問をしています。これは、日本の憲政史上に残る大演説とも言われる「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」と言われるもので2時間にも及ぶものでした。しかし、これを聞いた首相の山縣有朋は、「質問の趣旨 その要領を得ず 依って答弁せず」と言って答弁を拒否しました。

議員を辞職し天皇陛下への直訴を決行します

国会での度重なる訴えでも変わらない現状に、政治に対する不信感を募らせた正造は明治34年(1901年)衆議院議員を辞職します。ちなみに辞職をした後も正造の鉱毒被害を訴える活動は続き、あらゆるところで演説を行っています。

正造は議員を辞職した上で、遺書を書くとともに妻カツに離縁状を送り死を覚悟で直訴を決行します。黒の羽織、はかま姿の正装をした正造は議会開院式から帰途につかれた天皇陛下に直訴状を渡そうとします。警護の騎兵はこれを避けようとして落馬、正造も転び警官に取り押さえられ直訴は実現しませんでした。この直訴状は、幸徳秋水が執筆し正造が加筆修正したものです。佐野市郷土博物館でこの直訴状を見ましたけれども、多数の修正と捺印があり、正造の直訴状にかける思いが感じられました。

この直訴は失敗に終わりましたけれども、その反響は大きく号外が配られるなど広く世間に知れ渡りました。一方、取り押さえられた正造は、元国会議員ということもあり狂人が馬車の前によろめいただけであるとし不問に処せられました。

水没の危機に瀕した谷中村へ移住します

この事件がきっかけとなり、世論が盛り上がり政府は対策を講じないわけにはいかなくなりました。その対策は、利根川と渡良瀬川の合流地点に巨大な治水池を作るというものでした。鉱毒を撒き散らす洪水をこの池で食い止めようと言うものです。しかし、実際のところは被害地を水の底に沈め鉱毒事件そのものを葬り去ろうと言う狙いがありました。

この池の底に沈むことになる村、それが谷中村でした。正造にできることは立ち退きを迫られている人たちを守るために村に移住することでした。正造は単身で谷中村の川鍋岩五郎方へ移り住みました。

明治40年(1907年)、西園寺内閣は土地収用法を適用し、残留民家16戸の強制破壊を行います。しかし、残留民は、この破壊の後も仮小屋を建てて抵抗します。

最期まで民衆とともにあった正造でした

正造は、この残留民とともに谷中村復活を図ります。正造は、買収を幾度も断った村人の妻の話「我ら好んで正しく貧苦にいるもの 人の富はうらやましがらず 我ら夫婦は人の害となることはせざるなり」を聞き、それまでの自分が政治家として一段高いところから権力を振り回していたことを思い知らされます。なんとか政府の誤りを正そうとする正造ですが、その途中で病に倒れてしまいます。大正2年9月4日正造はこの世を去りました。

わずかな正造の遺品の中には、小石が3個あります。「美なる小石の人に蹴られて 車に砕かれるを 忍びざればなり」と言う言葉を残しています。

正造の葬儀は惣宗寺で行われました。渡良瀬川被害地はもちろん、全国から葬儀に参列し、その数5万人とも言われています。正造の遺骨は、惣宗寺だけでなく佐野市、小中町、栃木市藤岡町、館林市雲龍寺、加須市麦倉に分骨埋葬されています。

他にもこんな話があります

  • 正造は、政治の道に進むと決めた時に、父親に次のように言っています。「今より自己営利的新事業のため精神を労せざる事 公共上のため毎年120円ずつ向こう35年の運動に消費すること」つまり、生涯自己の利益のためには何もせず、粗食に甘んじても人々に奉仕する事の誓いを立てると言っています。当時正造は37歳でした。ここに35年の間とありますので72歳までと言うことになります。奇しくも正造は72歳でこの世を去りました。
  • 一生涯の資金と考えていた土地の収益金3,000円は、第一回目の衆議院議員選挙の時にすべて使い果たしてしまいました。(衆議院議員選挙には連続6回当選しています)
  • 正造の直訴状は明治天皇の目に届くことはありませんでした。しかし、平成26年(2014年)5月21日、当時の天皇皇后両陛下(今の明仁上皇陛下、美智子上皇后陛下)は、私的なご旅行で佐野市郷土博物館を訪れになりました。その時に一字一句漏らすことなく最後までご覧になられたそうです。
  • 田中正造の半生を描いた映画があります。1974年公開の襤褸の旗(らんるのはた)です。田中正造を三国連太郎が演じています。他に西田敏行、古谷一行、中村敦夫、志村喬などが出演しています。本日現在Youtubeで観ることができます。

これから訪問する予定地

  • 田中正造旧宅(佐野市小中町)
  • 田中正造生誕地墓所(佐野市小中町) カツ夫人が合祀されています
  • 田中正造記念館(群馬県館林市大手町)
  • 佐野市郷土博物館(佐野市大橋町) 今回行ったものの、もう一回行ってみたい

最後に

歴史に名を残される人たちは華々しい功績を残されている方々が多いと思います。その一方で、田中正造さんは足尾銅山の採掘を止めようとしたものの結果として止めることはできませんでした。その目的を達成することはできませんでしたけれども、日本で最初の公害問題である鉱毒による被害を世間に知らしめ、その低減に生涯を尽くされました。この人の人生の特に晩年の生き様は想像を絶するものがあります。この人の生き様のほんの一部ではあるものの、また資料を通してではあるものの、それに触れることが出来て光栄に思います。

今日は令和2年9月4日です。大正2年9月4日は正造さんの亡くなられた日です。単なる偶然だとは思えません。ひとりでも多くの人に田中正造と言う日本人を知っていただきたいです。そして、このような人格者がいたことを日本人として誇りに思っていただければと思います。

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