概要
江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)は平安時代から38代にわたって代官を勤めてきた江川家の36代目当主です。担庵(たんあん、たんなん)とも呼ばれていました。韮山にある世界遺産の反射炉をきっかけにその名前を知る人が多いと思います。しかし、大東亜戦争に負ける前までは全国的にも著名な人であり教科書にも載っている人でした。
どんなことをやった人なのか
とにかくいろんなことをやった人で、今の日本の歴史に大きく影響を与えた人であることは間違いありません。その功績のいくつかを紹介しましょう。
韮山反射炉を作った
海防の観点から鋳鉄製の大砲を鋳造する必要性を感じた英龍は静岡県伊豆の国市韮山町に反射炉を作りました。ただし、完成を前に英龍は他界し、その意思を注いだ息子の英敏が完成させます。この反射炉を使って鋳鉄製の18ポンド砲が作られました。実際に大砲を作った反射炉としては世界で唯一現存する炉なのだそうです。
お台場を作った
お台場を作ったというとフジテレビのあるお台場を想像される方が多いかと思います。江川邸に掲示してあった現在(上)と当時の様子(下)を比較した絵を貼っておきます。
見てお分かりになるようにひし形をした小島が海上に点在しているのがわかると思います。計画ではここ品川には十一ヶ所作る予定でしたけれども、幕府の財政難で第六台場までとなっています。現在では第六と第三台場しか残っておらず、そのうち第三台場が今の台場公園になっています。この台場の建設にも英龍が関わっています。
日本人として最初にパンを焼いた
最初にパンを焼いた人ということになっていますけれども、すでに長崎ではオランダ伝来のパンが焼かれておりました。英龍は、その長崎から技術を導入し兵糧や備蓄のために固いパンを焼くことを考えました。初めて日本のレシピで焼いた人というのが正しいようです。全国パン協会からパン祖と呼ばれており一年に一回江川邸の記念碑の前で感謝の式典が行われています。
江川邸で購入したパン祖のパンです。非常に硬いです。
号令を作った
「気を付け」、「前に習え」、「右向け右」などの号令を作りました。高島秋帆(しゅうはん)がオランダ語で行っていた号令を英龍の家臣の石井修三に翻訳させました。
他にもこんな話があります
上に記した功績以外にもたくさんの話がありますのでここに紹介しておきます
福沢諭吉に江戸の江川邸を譲渡しました。その場所はのちに慶應義塾分塾となりました。つまり今の慶應の敷地内にあります。
ジョン万次郎を通訳として登用しました。それまでの日米交渉は、英語→オランダ語→日本語とオランダ語を介して翻訳していものが、万次郎のおかげで直接通訳できるようになりました。
ペリーが江戸へ上陸する際にお台場にある砲台を見て江戸に上陸することをやめました。その代わり横浜に上陸しました。今の横浜の繁栄は英龍がいなかったら変わっていたと言われています。
自分の子供で種痘の安全性を確かめて、幕府に種痘の実施を進言した。
まとめ
農民思いの心優しい人であるだけでなく、文武に長けて国を思う気持ちの強い人であると感じました。たくさんのエピソードがあると思われるので、令和版修身の教科書に記載すれば良いのにと思いました。GHQの指示で教科書から削除されてしまったままになっていることが残念です。この人の人物像をもう少し調べてまとめたいと思います。