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概要
日本の近代医学史に大きな足跡を残した静岡県掛川市出身の女性医師です。東京女子医科大学を創った人で女性の地位向上と女性医師の育成に生涯を捧げました。「正しいと思ったことは、言葉でも行動でも堂々と主張する」そんな人でした。
どんなことをやった人なのか
医師が男性の職業とされていた時代、しかも女性は社会的地位が低く高等教育を受けることが難しかった時代に猛勉強をして内務省医術開業試験に合格した人がいました。日本で27人目の女医となった吉岡彌生です。
彌生は自分が学んだ済生学舎が女子学生を受け入れないことを知ると女医への道が閉ざされることに危機感を感じ東京女医学校を開設します。開校から8年後医術開業試験に合格する人が出るなどの順調に成果をあげていきます。
しかし、その後の法律改正に対応し存続するためには専門学校の開設が必要となりました。彌生と荒太は全財産を投げ打って東京女子医学専門学校を創設します。しかし、荒太は54歳で亡くなり彌生は息子の博人とともに亡き夫の分まで学校のために力を注ぎました。
この専門学校開設を皮切りに日本の女性医師は確実に増えていきました。1935年の時点で女性医師の数が世界第三位の3,400名にまでなっています。
その後、彌生は医学教育の枠を超えて女性の社会的地位の向上にも力を尽くしました。掛川市にある吉岡彌生記念館に東京女子医学専門学校の模型があります。この模型を見るとかなり大きな学校であったことがわかります。
ところが大東亜戦争の戦火が学校の大半を焼き尽くしました。しかし、教え子たちの尽力もあり専門学校は東京女子医科大学に生まれ変わりました。
戦後、彌生はGHQの公職追放により学校に一切近寄ることができませんでした。1952年に公職追放令廃止法が施行されると、彌生は東京女子医科大学の学頭になります。吉岡彌生は1959年に88歳の生涯を閉じるまで女性の社会的地位向上に尽力しました。
吉岡彌生の言葉
一人の人間が自分の頭に閃いた考えを全責任を以って実行に移す生き方、それが私の一貫した方針です。
人は神ではないから、完全は期せられない。七分の悪い点があっても三分の善い点があれば、自分は三分をとります。
夫人が職業を持ち、社会で活動できれば、広い知識を得るのでありますから、男子にとって真の好伴侶になることは当然でありましょう。
掛川市吉岡彌生記念館
掛川市下土方に吉岡彌生記念館があります。東京女子医科大学大東キャンパスのとなりにあります。入館料は¥200で内部は写真撮影禁止でした。ただし、吉岡彌生の生涯を3つのステージに分けて紹介してあります。
記念館の裏手には、明治末期まで存在していた長屋門が復元されています。ここからは写真撮影可なので写真があります。ちなみに鷲山は吉岡彌生の旧姓です。
移築された吉岡彌生の生家です。
中へ上がることはできませんでしたけれども、外から内部を拝見することができます。
彌生が大切にした言葉「至誠」の額がありました。
吉岡彌生記念館で上映されていた動画「女子医学教育にかけた生涯〜吉岡彌生物語〜」を掛川市のYoutubeで見ることができます。
今の時代、女性の医師は当たり前となっています。しかし、今から100年以上も前に女性の地位向上と女性医師の育成に尽力された吉岡彌生さんがいなければ、今の状況は変わっていたに違いありません。本当にすごい人だと思いましたけれど、うまく伝えきれません。ぜひ吉岡彌生記念館を訪問されることをお勧めします。