日本にはすごい業績を残されているものの、全国的にはあまり知られていない人がたくさんいらっしゃるものだとつくづく思います。その中のおひとりを紹介しましょう。
ある方から田中舘愛橘を調べてみてはどうですかと紹介を受けました。初めて聞く名前でしたので少しずつ調べておりました。実際に調査に行く前にネットでわかることはまとめておこうと思ったためです。ところが武漢ウイルスの感染拡大防止のために当面遠出ができませんので事前に調べたものを整理することを兼ねて、このブログで紹介しようと思います。
概要
田中舘 愛橘(たなかだて あいきつ 1856年10月16日ー1952年5月21日)は、岩手県出身の物理学者です。物理学だけでなくメートル法の推進、日本式ローマ字の考案、貴族院議員として幅広く活躍をされました。
どんなことをやった人なのか
それでは、この愛橘の功績を辿っていきましょう。
航空技術の発展に貢献しました
愛橘は、日本の航空機開発に深く関わります。陸海軍との共同研究による気球を開発しています。また、フランスで見た飛行船に影響を受け日本初の風動を大学の実験室に作っています。
愛橘はフランス人のル・プリウール、相原四郎海軍大尉などとともにグライダーを製作し、1909年12月9日、ル・プリウールが飛行を成功させています。その時相原海軍大尉も飛行を試みますが、失敗しなんと不忍の池に落ちたそうです。これが動力のない飛行機での日本最初の飛行となるわけですけれども、動力がないからかフランス人の飛行だったためか脚光は浴びていません。実は、これに先立ち12月5日に体重の軽い子を乗せてみんなで引っ張ったら浮いてしまったという逸話があります。正確にはこれが日本で最初の飛行ということになるでしょう。
その後、愛橘は日本初の飛行場として所沢を推薦し、1910年に所沢試験場(飛行場)ができました。
その頃、日本の造船技術が世界水準を維持していたことと比べると航空機の技術は大きく遅れをとっていました。そこで航空技術開発の重要性を主張する愛橘に海軍が賛同し、ここから航空技術が加速することになります。1918年には東大付属の航空研究所を作ります。零戦の設計で有名な堀越二郎もここの航空科の生徒でした。日本の航空技術の発展に愛橘が大きく貢献したことがわかります。
しかし、1945年8月の敗戦により、GHQから、すべての航空活動が禁止され、航空学科も廃止されました。(のちの1954年に航空学科は再開されYS-11の開発へと繋がります)
メートル法を推進しました
1791年、フランスにおいて北極点から赤道までの距離の1000万分の1を1メートルと呼ぶことが決まりました。メートルという単位の誕生です。その後各国が協力してメートル法を使用するためのメートル条約が締結されます。日本は1885年にこの条約に加盟し1907年に国際度量衡委員会のアジア代表常設委員として愛橘が任命されます。
その後、愛橘はメートル法普及のための講演活動などに取り組みます。1921年にメートルを基本とする度量衡法の改正が行われたものの、日本の計量法において正式にメートル法が施行されたのは愛橘の没後である1959年でした。
では、なぜこの委員に愛橘が任命されたのでしょうか。推測として東大時代に教えを請うたメンデンホールが関係しているのではないかと思っています。これは、今後の調査で明らかにしていきたいと思っていますけれども、現時点でわかっている話として少し紹介します。
愛橘は1878年東京大学理学部に入学します。その時の講師のひとりにトマス・メンデンホールがいました。メンデンホールは、物理学以外に化学、数学や天文学を教えていました。(メンデンホールは学生の頃に習った記憶があるのですけれども何をやったと習ったかを思い出せません。)
1880年、愛橘はメンデンホールの指導のもと他4名の学生とともに富士山頂に3、4日滞在し重力測定や地磁気測定を実施します。その結果、標高が3778メートルであると算出しました。富士山は3776メートルですので誤差2メートルと言うことになります。
ちなみに最初に富士山の高さを測ったのは伊能忠敬でした。1818年頃に三角測量を用いて測量し3928メートル(誤差152メートル)と言う結果(諸説あり)を残しています。その10年後の1828年に医師のシーボルトが気圧計を使って測量し3794メートル(誤差18メートル)という結果を残しています。
このメンデンホールは、メートル法や単位系の問題にも取り組んでいたようですので、このメンデンホールとの関係から国際度量衡委員会の委員に選ばれることになったのではないかと推測しています。
ちなみに、このメンデンホールという人は、アメリカの物理学会会長を1923年に務めていますので、それなりに権威のある人でした。大森貝塚を発見したエドワード・S・モースの推薦で東京大学の物理教師となることができました。
日本式ローマ字の考案しました
ローマ字には、いろいろな方式や変遷があります。ここでは、少々乱暴ではありますけれども愛橘の功績に着目した形で簡略化してお話しをします。今我々が使っているローマ字はヘボン式といわれるもので江戸時代にできました。”しちつふじ”をshi chi tsu fu jiと書きます。
愛橘は、このヘボン式に違和感を感じ1885年に日本式といわれるローマ字を考案します。日本式ローマ字は、”しちつふじ”をsi ti tu hu ziと書きます。学校で習ったローマ字は、こちらの日本式でした。(正確には、日本式に改変を加えた訓令式と言います)
愛橘の考案した日本式の何が凄いのかと言いますと、言葉を音としてとらえた時に正しく表記されていると言います。具体的には録音して逆再生をした場合にも正しく記述されているというのです。先ほどの”しちつふじ”を逆再生した時に聞こえる音は日本式ローマ字での記述を逆から書いたi zu hu ti ti sと聞こえるということです。
子供の頃に親戚のおじさんからいただいたオープンリールのテープレコーダを持っていました。逆回転で再生すると確かにローマ字を逆から読んだものと同じであるということに気づき感動した記憶があります。今は逆再生することができる装置があまりありませんので、そのことを体感して知っている人は少ないかもしれません。
ちなみに日本式ローマ字が逆再生などを使って音としても正しい表記であることが確認されたのは、愛橘が日本式ローマ字を考案してから50年ほど後のことでした。
それにしても愛橘は、どのようにして音として正しい表記を考えたのでしょうか。普通の物理学者でないことだけは確かです。もう少し調べてみたいと思っています。
こんな話もあります
- 60歳定年退職という制度をつくるきっかけを作りました。
愛橘は60歳になると大学教授としての辞表を提出します。それまで定年退職という決まりがなく、このことがのちに60歳での定年退職制度ができるきっかけになったと言われています。
これからの調査予定
- 田中館愛橘記念科学館
岩手県二戸市にあります。 - 田中館愛橘ゆかりの家
- ローマ字墓
- 呑香(とんこう)稲荷神社
愛橘のローマ字で書かれた歌碑があります。
田中館 愛橘という方の功績を紹介しました。しかしながら、この方のお人柄に触れる情報をもう少し集めたいと思っています。これから調べるとともに岩手に行こうと思っています。すごく素敵な方だと調べていて思いました。この方を教えてくださった方に改めて感謝したいと思います。