旅をしていると本を読む時間がほとんどありませんので、家にいる時には貪るように読んでいます。今は5冊くらいを並行して読んでいます。
その中の1冊の冒頭に
「我々はすでに知っているものしか認識できない」
Dr.トマベチの人生を変える! 脳と心の洗い方
苫米地英人
という言葉が書いてありました。
最初は「?」と思いましたが、携帯電話を知らない原始人に見せても火打ち石か武器としか思えないけれど、現代人であれば、3歳児でも認識できるというのです。
以前、次の投稿に
100人に話をすると、100通りの受け取られ方をするということを書きました。なぜ、そのような事が起きるかと言うと人それぞれの知識に違いがあるからであり、その知識をもとに他人の話を聴いているからです。
苫米地博士によれば、ものを観る時にも言える話であり、人は外部から入ってくる情報を自分の知識を使って見ている(内部表現と言うらしい)と言うのです。確かに、上の投稿記事を書いている時に、そこまでは気づいていました。しかし、そこで思考が止まっていました。そこから先のことが上の本には書かれていました。それにしても、いつも苫米地博士の考えが自分の考えていることの延長線上にあって、悔しいと言うか、面白いと言うか…。
話をもどして、自分は石垣を観るのが好きです。安土桃山時代に石垣施工の技術者集団である穴太衆(あのうしゅう)がいて、今、その穴太衆を題材にした歴史小説「塞王の盾」(今村翔吾)を読んでいます。
この小説を読みながら、石垣に対する見方が今までとはまたひとつ違ったレベルになりそうな気がしていました。これも、知識がついたおかげで内部表現が変わった例だと思います。
以前、感性を磨きたいと言う記事を書きました。
この中で、「広く捉えた物事の考え方が出来るよう訓練したい」と言いましたが、改めてそう思います。感性を磨くとは、内部表現をより豊かにすることにつながると思います。そのためにも、もっと、いろんなところを観て、いろんな本を読んで知識を広めたいと思います。
適菜収さん(日本の哲学者)の言葉だったか、その中で紹介されたゲーテの言葉だったか忘れましたが、こんな事が書いてありました。
世の中には、たくさんの本がある。しかし、どんなにがんばっても、そのすべてを読むことはできない。その中で読む本を選ぶとするならば古典を読むべきである。なぜならば、これまでの歴史の中で読み継がれてきたことが、その価値を物語っているのだから。
まったく、そのとおりだと思ったものの、徒然草や枕草子を読んだところで訳が分からないしと思っておりました。
先日、ふとした事がきっかけで、孔子が約2500年前の人であることを知りました。中国の昔の人で儒教を作った人くらいの知識しか持ち合わせていなかった自分は、びっくりしました。はるか昔、それは聖徳太子のさらに1000年くらい前に生きた人でした。
昨日読んだ安岡定子さんの記事に論語は面白いという事が書かれていました。そう、孔子の書いた論語です。これも何かの縁と思い、安岡定子さんの著書の中から 「子や孫に読み聞かせたい論語」という本を注文しました。子や孫に読み聞かせるくらいなら、凡人の自分にもわかるだろうという単純な理由です。
巧言令色鮮し仁という言葉がありますが、論語の言葉だとは知りもせず使っておりました。
そして、「1日1話、読めば心が熱くなる 365人の仕事の教科書」の今日の言葉に安岡正篤さんのことが載っていました。安岡定子さんのお祖父様に当たる人です。やはり神様が「論語」を読めとおっしゃっているのだろうと思います。
読んだ記事や、並行して読んでいる本の内容が、どんどん繋がります。そう感じるのも知識が増えて内部表現が豊かになっていく証なのだと思いました。
日本中や人生を旅するのであれば、もっと知識を付けて挑まなければ、すごくもったいないなぁと、旅の合間に思うのでありました。
早く旅に出たい!