宮崎県日南市にある飫肥城石垣と案内板
今日は、九州で最初の重伝建に指定された飫肥(おび)城下町と飫肥城跡を観に行きました。
鉄肥は江戸時代には飫肥藩5万1千石の城下町として栄え、明治時代から昭和30年代にかけては南那珂郡の政治・経済の中心地として栄えました。城下の形成は、天正15年(1587年) に飫肥藩主伊東祐兵(すけたけ)が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられてから、本格的に建設が進んだと考えられています。
飫肥城大手門です。飫肥城の大手門は明治6年(1873年)に取り壊されましたが、昭和53年(1978年)に国内に現存する大手門を参考にして在来工法で再建されました。
飫肥城には天守がないのですが、石垣は切込み接でとても美しいです。いろいろなお城を観てきましたが石垣の仕上げは、かなりレベルが高いと思います。
飫肥城歴史資料館(6施設の共通券800円 JAF本人のみ700円)です。飫肥藩関係の資料を展示、公開するための歴史資料館として昭和54年(1978年)にオープンしました。外観は江戸時代初期の書院造りで玄関は唐破風になっていました。
わかりやすい展示内容で観終わるのに50分ほどかかりました。
初代飫肥藩主・伊東祐兵の鎧です。豊臣秀吉に仕えた武将らしい豪華な作りになっています。
胸についている家紋は飫肥藩の家紋で「庵木瓜の紋」、その下にあるのは伊東家の「月に星 九曜の紋」です。この九曜紋は通常の九曜紋に比べて星が一つ多いです。その理由を知りたかったのですが、わかりました。
江戸時代初期に熊本城に同じ九曜紋を用いる細川家(54万石余)が入部するにあたり、5万石の飫肥藩主・伊東祐久は戦場での混乱を避けるため大藩である細川家に遠慮して星を一つ増やしました。形状としては十曜紋になったのですが、その後も「九曜紋」と称し続けました。
浅野家女乗物です。11代飫肥藩主・伊東祐民の妻、栄松院(為姫)が乗用したもので、生家の広島藩浅野家の鷹羽紋が施されています。女乗物は全国に50挺ほどしか現存しないとされる貴重な文化財です。
内部の装飾がとても美しかったです。
この資料館で知りたかったことをかなり知ることが出来ました。
松尾の丸です。飫肥城復元事業により、昭和54年(1979年)に、江戸時代初期の書院造りの御殿として、在来工法を使用して建設されました。
飫肥城は石垣の仕上げが美しいと言いましたが、石段も丁寧な仕上げになっていました。
参勤交代で使用された御座船の模型です。
湯殿(蒸風呂)です。
すのこの下にお湯を沸かす釜があります。
上の口から水を流すと先ほどの釜に水が蓄えられます。下で火を燃やしてお湯を沸かし蒸気を発生させる仕組みになっていました。
松尾の丸は、思っていた以上に広かったです。
今日のお昼は飫肥城下町にあるSmoothie Cafe 菜菜でいただきました。
ナポリタン660円です。喫茶店のナポリタンなので、あまり期待をしていなかったのですが、想像を裏切る美味しさでした。ご満悦おばさんも、同じ印象を持ったようで、ご満悦でした。
振徳堂(無料)です。飫肥藩5万1千石の藩校として、第13代飫肥藩主伊東祐相(すけとも)によって、天保2年(1831年)に創建されました。
万延元年(1860年)には剣術修行の途中の土佐藩士・武市半平太らが武芸所で飫肥藩士たちと試合を行っています。
幕末には飫肥西郷と称された小倉処平や小村寿太郎を輩出しています。小倉処平は小村寿太郎を導き大きく影響を与えた人です。西南戦争が勃発すると飫肥隊を編成し西郷軍に加わりましたが、銃創を負い自刃しています。その功績を称える碑がここにありました。
小村寿太郎の生家(無料)です。後に訪問する生誕の地から移設されたものです。
中に入ることは出来ませんでした。
豫章館(よしょうかん)です。飫肥藩主伊東祐帰(すけより)が明治2年(1869年)に城内から移り住んだ屋敷です。
自分は高校時代に、この景色を写生したことがあります。懐かしいです。
奥に茶室があります。
今は使われていませんでした。
小村寿太郎記念館です。
小村寿太郎の功績について学ぶことが出来ました。
詳細は割愛しますが、思っていた以上に小柄な人でした。
鯉が泳いでいました。
旧山本猪平家です。
小村寿太郎 産湯の井戸がありました。
そして、隣には小村寿太郎生誕の地がありました。
東郷平八郎の筆による碑が立っていました。
旧高橋源次郎家は休館中で入れませんでした。
商家資料館を観ました。
昔使われていたものなどを展示していました。
飫肥の重伝建は、今まで見た重伝建とは印象が違い、石垣が多用された町でした。
どの石垣もとても美しいものでした。
最後に、おび天(さつま揚げのようなもの)を買って帰りました。
今日は勉強になりました。復習しないとすぐに忘れてしまいそうな感じです。
では、また明日。