昨年まで自分は、その「見えない服」を持っていました。
その服は、着ている人を立派な人っぽく見せる力がありました。また、その服を着ている人に対して矢を放ったり、刀を振り下ろそうと言う気持ちを起こさせない威厳のような雰囲気を醸し出す力がありました。
この服には、いろいろなタイプがありました。高いものになればなるほど、数は少なくなり、持っている力が絶大なものとなるのでした。その服は着るとその服の持つ力があたかも着た人の力になったかの如く一体化するのでした。
ある時、2人の人が言い争いをしていました。そこにこの服を着た人が行くと2人とも大人しくなり、2人の話を丸く収めることができました。また、普通の人ではとても聞いてもらえないお願いも、この服を着ていれば簡単に聞いてもらうことができるのでした。
その服を着ているうちに、その服を着ていることを忘れ、人は自分の能力が高くなったのだと勘違いするようになるのでした。
そう、その服の名前は、「肩書き」です。
自分は、会社に行くとその服を身にまとっていました。そして、その服にあった振る舞いをしていました。そうすることがその服を着るための暗黙の条件となっていました。そして先に述べた力を享受していました。
しかし、仕事が終わるとその服をハンガーにかけて会社を出ました。仕事以外の場で若者たちと話をするのは、その服を着た人ではなく「自分」だからです。中には、その服を着た人と話したがっている人もいました。しかし、自分はその服を着て飲み会に行くことは、仕事上のお付き合いの時を除いてありませんでした。
飲み会の場などで人の相談に乗ることもありました。その時には「素の自分」として相談に乗りました。その上で必要に応じてその服の力を借りることもありましたけれども、話を聞く時にはその服はまとっていませんでした。
その服に自分の魂を売ることが出来なかったからです。
人によっては、1日の仕事が終わっても、その服を着て帰る人もいました。ずっと身に付けていて、飲み会の場でも脱いでない、そんな人がいました。まるで服が人をまとっているようでした。
誰でも、いつか会社を辞める時が来ます。その時には、その服は持っていけないのです。ずっと着ていた人は、どうするのだろうかと思います。服の力を自分の力だと思い込んでいるのだろうから、きっとそのギャップに苦しむことになるのだろうと思います。
その服のおかげでたくさんの貴重な経験が出来ました。正しく使えば、素晴らしい武器になりますし、着ている人も成長すると思います。
会社を辞めた今の自分にとって、その服に変わるものは何だろうと改めて考えてみました。おそらく今は生まれてきた時の姿なのだろうと思います。
正直に言って、身軽でとても気持ちいいです。
冒頭の写真は広島県廿日市市 厳島神社 2016年10月23日撮影