コラム

神社とお寺

神社仏閣を参拝するのが好きで旅の最中でもよく行っています。いろいろなところを観て回るうちに神社の隣にお寺がある場合が多いことや、神社の中にお寺があったり、お寺のはずなのに神社の象徴である鳥居があったりすることに気づきました。

日本人のひとりとして、なぜこのようなことが起きているのかを知ることは大事なことではないかと思いましたので、調べて現時点でわかっていることを非常におおまかではありますが、まとめてみたいと思います。

日本に仏教が伝わってきたのは西暦500年代とされています。それ以前は、八百万の神と言ってあらゆるものに神が宿ると言った考え方である神道がありました。ちなみに神道には、開祖や経典を初め具体的な教えがありません。

日本に伝わった仏教が浸透して行く過程で神道との融和が図られるようになりました。当初は仏も日本の神様のひとつとして認識されていたものの、奈良時代には仏教が主で神道は従と言った考えに変わっていきました。それにともなって日本の神様も我々と同じように救いを求める存在とされ、それを救済するのが仏であるという考えになりました。その結果、神社の傍らにお寺(神宮寺)が建てられるようになりました。ただし、神社とお寺のどちらが主体なのかは一概には言えません。この神宮寺に対してお寺に付属して建立された神社を鎮守社と呼びます。そうして、神前で読経が行われると言ったことが起きるようになりました。

戦国時代になると神仏にさらに儒教を融合した天道思想が武将を中心に信仰されるようになりました。この天道思想は道徳や倫理を重視することから、自分はこの天道思想がのちの武士道の礎になっていったのではないかと思っています。ちなみに「おてんとうさまに顔向けができない」と言う場合のおてんとうさまとはお天道様のことを指します。このように人が見ていなくても悪いことをしないという日本人の道徳観、倫理観を形作るもとになったのではないかと思っています。

このようなお寺と神社が一体化した状態(神仏習合という)は江戸時代まで続きました。江戸時代には儒教の普及した一部の藩を中心に神仏分離政策が取られ始めます。また明治時代になると政府は天皇を中心とした官僚国家の樹立を目指すために神道国教化の方針を打ち出し神仏分離令を発しました。この神仏分離令は仏教を排斥するものではなかったものの拡大解釈され多くの寺院や仏具の破壊が行われ歴史的文化的に価値のあるものが失われてしまいました。

この時点から神社とお寺が明確に分けられるようになります。しかし一部の寺社ではそれまでの形を頑なに守るところがあり今に至っています。

祟りという概念は、神道にあるものの仏教にはありませんでした。仏教には「仏罰」と言う概念があります。しかし、仏の悟った真理に背いたために自然に蒙る罰のことであり、仏や第三者が与えるものではありません。したがって、今我々がたまに使う「仏様のバチがあたる」と言う考え方は神道での祟りの概念が仏教と融和した神仏習合を経た結果と言えるでしょう。

神社仏閣を訪れると戦国時代の武将がその寺社を崇めたと言う話が残っていますけれども、このような背景から武将と神社仏閣とは密接に関係していたものと思われます。

神社とお寺が近くにある、あるいは神社の中にお寺がある(またはその逆)と言うのは、1000年以上も続いた神仏習合の時代の名残であって、その歴史を踏まえて参拝する必要があると思いました。これからはそう言う目でも見ていこうと思います。またひとつ旅の楽しみが増えました。

神仏習合を調べる中で鳥居に関してもいろいろなことを学びました。ここに書くまでには至っておりませんので、もう少し各地を回って、この目で見て思うところを書けるようになりたいと思います。日本ってすごい國だとあらためて思います。

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