徳島県徳島市にある旧徳島城表御殿庭園
48日目:徳島県板野町〜徳島市〜板野町
走行距離:26.4Km
今日は徳島市立徳島城博物館でたくさん勉強しました。また、先日間違って1000回目の投稿と書きましたが、今日が本当の1000回目でした。
道の駅 板野の朝です。晴れました。
今日から、しばらくは天気が良さそうです。
徳島市にある徳島中央公園 東側駐車場310円に車を駐めました。写真を撮り忘れましたが、それなりに大きい駐車場でした。
城山の海蝕痕です。写真ではわかりにくいのですが、前面の岩肌に残る大小の円形のくぼみは、海の波に浸食された痕だそうです。気候温暖化に伴う海面の上昇や陸地の沈降により、海水が内陸まで入り込んだ、いわゆる「海進」によるもので,大規模な海進があった6,000~5,000年前頃(縄文時代早〜前期)には,このあたりが海であったことを物語っています。
城山の貝塚です。約4,000~2,300年前の縄文時代後期~晩期を中心とする岩蔭・洞産遺跡であり、現在この3号貝塚のほかに1号貝塚・2号貝塚が存在するそうです。
文学博士 鳥居龍蔵先生記念碑です。先ほどの城山貝塚を発掘調査したのも、この鳥居博士です。
城山貝塚です。この岩も緑色片岩です。このあたりは、ほとんどが緑色片岩です。
子供平和記念塔です。
子供平和記念塔は、世界の平和がいつまでも続くようにと願って、県子供民生委員の首唱でつくられたものであり、塔に埋め込まれている石は、徳島の子供達の呼びかけに応じた全国の小中学生やアメリカの子供たちから送られてきた特色のある石や化石が使われており、その中には昭和23年当時の皇太子殿下から贈られた石(那智の名石2個)もあるそうです。
弁天池(蓮池)です。城山南麓に残る古池、かつては池一杯に蓮が植えられていたので、蓮池と呼ばれました。この池の中央に築出した所に、七福神の一つである弁財天をまつる小社があり、南畔から朱塗りの欄干のついた木橋がかかっていたため、弁天池とも呼ばれています。
徳島市立徳島城博物館300円(JAF240円)です。写真撮影は禁止でした。ガイドの方が途中入れ替わりで2人着いていただき、じっくり説明をしていただきました。気がつけば2時間半が過ぎていました。
学んだことと言えば、
- 蜂須賀家の家祖は蜂須賀正勝で蜂須賀小六その人だった
- 蜂須賀家の家系図をもとに14代までの藩主に関する話
- 城下町のジオラマや各年代ごとの地図をもとにした徳島城と城下町に関する話
- 徳島水軍の話(国指定重要文化財の千山丸あり)
- 庶民の話(両替商、米屋、寺子屋など)
- 平安時代からの雛人形の移り変わり
それ以外にも、多くのことを教えていただきました。
お昼になりましたので、一度、外に出て食事をすることにしました。線路を越えて行くときに屏風折塀(びょうぶおれべい)の支柱を支える舌石を観ることが出来ました。屏風折塀は、塀の一部を屏風のように折り曲げて堀川の方向に突き出させたもので、この折塀に鉄砲や矢を撃つための穴を設けることによって正面のみならず側面方向への攻撃が可能となり、城の防御性を高めていました。
今日のお昼は、徳島市にある生パスタ専門店 木村スパゲティでいただきました。
ここには1,200円と書いてありますが、990円でした。
着いた時は、いっぱいで10分ほど待って案内されました。その後もすぐにいっぱいになりました。
オーガニックサラダ
みそミート、これにドリンク(アイスコーヒー)が付いて990円です。肉味噌味ですが、普通のミートソースの方が自分は好きだということがわかりました。
今日のご満悦おばさんは、きのこバター、オーガニックサラダ、アイスコーヒー990円です。美味しかったそうですが、生パスタではない方がお好みなのだそうです。贅沢な方です。
食事の後は、戻って旧徳島城表御殿庭園を観ました。拝観料は徳島市立徳島城博物館の拝観料に込みです。枯池に架かる自然石の橋です。初代藩主蜂須賀至鎮公(義伝公)踏割の伝説のある長さ10.5m、重さ約13トンの自然石橋(緑泥片岩)です。義伝の踏割石・地団駄橋といわれています。
枯山水庭園の切石穚です。御影石(花崗岩)を加工した豪華な切石橋が架かっていました。長さ6m。桃山様式の庭園であったため、橋が多用されています。
東部築山の陰陽石です。子孫の繁栄を祈る祈願石で、この巨石は、また髑髏にも見立てられ、穴の内側に耳を寄せると、地獄の釜のたぎる音が聞こえるともいわれています。ゴーという音が聞こえました。
花崗岩のくりぬき井戸です。旧藩時代の井戸です。下部は緑泥片岩積みとなっています。当時いかにして水を吸い上げたかは不明だそうです。
観音堂跡です。藩主が暮らした御殿の「鬼門」(東北)にあたるため観音堂を設け、観音様を祀ったとされています。
庭園全貌です。
城山側の樹には、アオサギが巣を作っていました。この写真でも数羽見ることが出来ます。
御祠堂跡です。儒教方式の藩主墓所「万年山」(徳島市佐古山町)と連動し、安永9年(1780年)に設けられた先祖の祀堂があった場所です。以前は梅見茶屋があったそうです。
心字池(しんじいけ)です。上から観ないとわからないのですが、草書体の心という字形に作られているとのことでした。水は自然湧出水で大体足りていましたが、地下樋道(現在は不通)により内堀と連結し、潮の干満とともに水位が変わるので藩主は居間に居ながらにしで潮の満ちひきがわかったそうです。
緑色片岩を縦に置くと、すごく絵になる庭になると思いました。美しいです。
御影石をくり抜いた井戸です。飲み水等の確保のため、城内にはいくつもの井戸が掘られてていました。他国産(阿波国外)の御影石をくり抜いて作った豪華な井筒です。
蜂須賀家政公銅像です。蜂須賀家政公(藩祖)は、天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国平定の大功により阿波一国をたまわり、天正14年(1586年) に一宮城(徳島市一宮町西丁)から中世に築造され渭津城を修築して徳島城とし、藩政の中心地としました。入国の後は、藍、塩などそれまで阿波になかった産業を取り入れ、新しく製塩・製藍工業を起こし盛んに日本中に売り広めました。また、全国でも有名な阿波踊りも家政公時代に始まったと伝えられます。
戦前は、野太刀と長槍を持った甲胃姿の蜂須賀小六正勝公(家祖)の銅像が立っていたそうですが、戦時中に供出されてしまったらしいです。それが昭和40年(1965年)に裃姿の家政公の銅像に生まれ変わったそうです。
ここから城山に登っていきました。
緑色片岩を使用した石垣です。
東二の丸跡です。ここに天守があったようです。通常は本丸にあるのですが、一段下がった二の丸にある理由は、よくわかっていないようです。
本丸東石垣です。
本丸です。広いです。
弓櫓跡です。
弓櫓の石垣です。
帳櫓跡です。
西二の丸跡です。
西三の丸跡です。現在は城山配水池になっていました。
8620形式蒸気機関車が展示されていました。
竜王さんのクスです。城山で最大のクスノキの古木で、樹齢推定600年くらいだそうです。昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れてしまいました。しかし、葉が生い茂っており元気そうでした。
ここで馬を降りて橋をわたって城内に入っていく下乗橋です。
鷲の門です。幕府に鷲を飼うからと申し立て建造したところからこの名前が付いたと伝えられています。
数寄屋橋です。
その後、藍住町にあるゆめタウン 徳島で食材を調達しました。
今日は、島市立徳島城博物館でじっくり話を聴いたため予定のスケジュールをこなすことが出来ませんでした。板野町にある道の駅 いたのにふたたび戻ってきて、明日、続きをやります。
今日も、ここに泊まります。
今日で、投稿が1000回を達成しました。これまで読んだいただいたみなさまに感謝します。
では、また明日です。