日本の素晴らしい人たち

後藤新平

台湾の武漢ウイルスに対する取り組みは素晴らしいものがあります。この台湾の検疫に関しては、日本の後藤新平さんという方の取り組みが活きているという話を聞いたことがありました。今回改めて調べてみました。

概要

後藤新平(岩手県出身 1857年7月24日ー1929年4月13日)は、医師で政治家です。「新平の大風呂敷」という言葉があるようにとにかく考えることが桁外れに大きい人です。その規模で実現させることは出来なかった事例もあるものの成し遂げた成果に関しては今の日本の基盤になっているものも少なくありません。その功績の一つである日清戦争からの帰還兵23万人の検疫については、のちの台湾の衛生管理にも反映されています。

何をやった人なのか

新平の功績を追って行く前に少し生い立ちに触れましょう。

新平は、仙台藩水沢城(今の岩手県奥州市水沢)の留守家に使える侍 後藤実崇の長男として生まれました。小さい頃から頭がよく勉強にも励んでいました。11歳で留守家の当主の身の回りの世話をする奥小姓になります。

13歳の時に廃藩置県があり県庁の給仕となリます。他の給仕とともに就寝するものの、ひとりだけ寝床を抜け出し勉強をしていました。その努力が実って18歳で須賀川医学校に入っています。ただし家庭は決して裕福ではなく継ぎ接ぎだらけの服を着ていました。身なりは見窄らしいものの美男子で有名だったようです。

医学校を出ると医師となり愛知県医学校では学校長兼病院長まで務めています。その後内務省衛生局に入ったことが政治家に転じるきっかけとなりました。

日清戦争の帰還兵の検疫で手腕を発揮します

1895年、新平は日清戦争の帰還兵の検閲業務を指揮します。その規模は艦船687隻、総人員23万人以上、うちコレラ感染者369人といいますから、かなりの規模であることがわかります。新平はこの検閲を実施するために似島をはじめとする3箇所に大規模な検疫所をわずか2ヶ月で建設します。感染作業の順序を示すチャート図や、殺菌をするための大型ボイラーなど今の感染の知識から見ても理に適った設備であったことがわかります。

帰還者の所有物は、消毒する物と焼却する物に分け焼却する物は値段を定めて処分をし、後に補償をすることを即座に決めています。このところ自粛に対する補償についてはっきりしない部分がありますけれども、新平の政治家としての力量の高さを伺わせる話だと思います。

台湾の民政局長として経済改革とインフラ整備に取り組みました

1898年、帰還兵の検閲で手腕を発揮した新平は、その時の上司であった児玉源太郎が台湾総督となるにあたり民政局長に抜擢されます。新平は経済改革とインフラ整備を強力に進めるにあたり徹底的に台湾を調べます。新平には「生物学の原則に則る」と言う考えがありました。「その社会の習慣や制度は生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く」と言う考えを持っていました。当時の日本の植民地政策の基本的な考え方がここに伺えると思います。

その一例としては、台湾での阿片禁止に危機感を抱いていた台湾の人達に対して無理やり禁止にするのではなく、専売制度を導入し徐々に高額にしてくことにより根絶を実現しています。

また、新平は苦労の末、アメリカから新渡戸稲造を招聘し、台湾でのサトウキビやサツマイモの普及と改良をさせました。台湾全土の耕地面積や地形を明らかにし課税の基盤を整備するとともに、戸籍調査や台湾銀行券の発券など社会資本を整備するための莫大な資金調達を可能としました。

陸上や海上の運輸能力、飛行場や電話網の整備、疫病対策、教育の拡充など、あげればキリがありません。台湾における新平は、ダムを建設した八田與一と並んで尊敬をされています。台北にある臨済護国禅寺には新平の3つ存在するデスマスクのうちの1つが献納されています。

南満洲鉄道初代総裁として活躍しました

1906年、新平は南満洲鉄道初代総裁に就任しました。新平は就任の1年前に上司である台湾総督 児玉源太郎に満洲の統治構想を提案しています。それは、表向きは鉄道経営で、裏で様々な施設を作ろうと言うものでした。鉱業、炭鉱採掘、水運業、倉庫業、土地家屋などの経営を行うことになります。この事業展開においても「生物学の原則に則った開発」として調査部を設置し徹底した調査を実行しています。いろいろな国の利権が絡む満鉄ですけれども、新平は日清露の三国が利益を得る方法を考えていました。

関東大震災後の東京で帝都復興計画を推進しました

新平は、逓信大臣、初代内閣鉄道院総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長などを歴任しました。関東大震災の直後には内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案しました。その計画は、当時の国家予算の1年分に匹敵する大規模なもので財界からの猛反発に遭います。その結果、当初の予算の約半分程度に縮小することとなりました。

しかし、放射状に伸びる道路や環状道路など、今の東京の交通網の根幹をなす路線の基本を作り上げています。完成した当初は街路樹や緑地帯を有する道路であったものの、その後、景観に関しては緑が少なくなり新平の意図したものとは違うものになっています。

拓殖大学の学長を務めました

新平は、台湾総督府民政長官時代に台湾協会学校を支援していました。その関係もあり1919年から台湾協会学校の第3代学長となります。新平は台湾協会学校を大学へと昇格させることに奔走します。高等学校相当の予科の設置、教員の確保、設備などの課題に取り組みました。中でも最大の課題は資金を調達することでした。新平は台湾にある複数の製糖会社から目標とした資金を集め大学に昇格に向けての申請をしました。その後、東洋協会大学を経て1926年拓殖大学となりました。

最後に残した言葉

新平が倒れた日に残した言葉は、

よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ
仕事を残して死ぬ者は中だ
人を残して死ぬ者は上だ
よく覚えておけ

だったそうです。

他にもこんな話があります

  • 26歳の時に板垣退助が暴漢に襲われ怪我をします。その時の治療をした医師は新平です。「板垣死すとも自由は死せず」と言う言葉が有名になった襲撃事件です。ちなみに、この言葉は板垣が発したものではないようです。
  • 金権政治には無縁の人だったと言う記録がある一方で、台湾での阿片根絶に貢献した裏に新平と製薬会社との間に阿片専売に関する癒着があったと言う見方もあります。ここはもう少しきちんと調べてみたいと思います。(誤解があるのであれば正したいと思っています)
  • 新平は、もと部下の正力松太郎から読売新聞社を買収して経営したいと言われた時に、自宅を抵当に入れて10万円を貸します。正力は10万円の出どころについて、新平が政治家なのでどこかで工面してきたのだろうと軽く考えていました。ところが後になって自宅を抵当に入れて工面した金であることを知ります。正力はお金を返そうと思ったものの新平はなくなった後でした。1941年、正力は新平への感謝の気持ちを込めて水沢市(当時)にかりたお金の倍の寄付をします。水沢市ではそのお金で日本初となる公民館を建てました。
  • 文化人類学者の綾部恒雄氏によれば、新平はフリーメイソンの会員だったそうです。
  • ボーイスカウト日本連盟の前身である少年団日本連盟初代総裁を務めました。フリーメイソンだったからだと言う人がいます。
  • 1924年に社団法人東京放送局が設立され初代総裁となります。この放送局は、後の日本放送協会(NHK)になります。
  • シチズン時計の名付け親です。当時の社長から新しく出す懐中時計の名前をつけて欲しいと依頼され「市民から愛されるように」との願いを込めてCITIZENとつけました。それが今の社名になっています。現在の企業理念も「市民に愛され市民に貢献する」となっています。
  • 新平の邸宅は、現在中国大使館になっています。
  • 東京市長時代には、給料を全額東京市に寄付しています。その寄付金は、当時十分ではなかった東京市の社会教育費に充てられました。

これから訪問する予定地

  • 奥州市立後藤新平記念館 〒023-0053 岩手県奥州市水沢大手町4丁目1
    正力松太郎が新平に感謝をして寄付したお金で建てられた日本初の公民館です。
  • 奥州市武家住宅資料館 後藤新平旧宅があります。
  • 松原公園
    福井県敦賀市にあります。新平の書による「松原公園」と記された石碑があります。
  • 水沢公園 〒023-0857  岩手県奥州市水沢区中上野町
    新平像が2基あります(日本ボーイスカウト初代総裁像、南満洲鉄道初代総裁像)
  • 岩手県立図書館 後藤新平関連書籍の蔵書があります。

最後に

武漢ウイルスに対する台湾の対応状況は素晴らしいものがあります。今回、その台湾に少なからず貢献した日本の偉人を紹介しました。

岩手県は日本で唯一感染者を出していません。(執筆時時点)これまでは、岩手県知事がジョンズ・ホプキンス大学出身だからかなと思っていましたけれども、後藤新平という検閲の神様の出身県だからかもしれないと思うようになりました。

日本の素晴らしい人たちをブログに書いていますけれども、偶然にも3人続けて岩手県出身となりました。岩手県、すごい県だと思いました。

会社に務めていた時に、よく部下に数学的アプローチが大事だと言っていました。今回、後藤新平さんを勉強させていただいて「生物学的なアプローチ」もありだなと思いました。これから意識したいと思いました。

 

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