概要
生まれについては記録が残っていません。江戸時代中期の関東郡代(関東の幕府領を支配する代官)です。伊奈家は歴代に渡り郡代として特に架橋工事、治水工事を主に担当していました。その伊奈家の七代目が忠順です。
何をやった人なのか
1707年(宝永4年)11月23日の早朝、富士山が東口中腹より噴煙をあげます。この噴煙は、12月8日までの間、御殿場市、小山町を始め神奈川県、東京の一部に降灰をもたらします。特に須山町では、3mを越すところもありました。今の御殿場市、小山町を含む地域は当時小田原藩の領地でしたけれども、小田原藩は早期に復興を諦め、この地域を幕府に返上してしまいます。幕府は降灰処理作業や河川事業のために各藩から高役金(義捐金)を徴収をします。しかし、実際に復興に使用された金額は1/8〜1/10ほどしかありませんでした。
幕府による河川の復旧工事もいい加減なもので、何度工事をやっても十分なものではなく氾濫を繰り返しては江戸商人に入札をするということを繰り返していました。また、幕府の役人達も農民達に知人を頼って他に行くようにと勧めるような有様であり、見捨てられた土地(亡所)となっていました。この地域では飢餓に苦しむ人が続出するなど凄惨を極めました。
そのような中、幕府より砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行として復旧作業の責任者に任命されたのが伊奈半左衛門忠順です。忠順は、扶持米の支給、年貢の免除に加え、酒匂川の復旧工事に被災した人たちを採用し賃金を優遇するなどしました。
一方、幕府はといえば、勘定奉行荻原重秀が復旧工事費用を出し渋り忠順を苦しめます。また、朝使聘礼の接待役に任命された忠順は幕府が多額の金を使用することを見て幕府のやり方に不満を持ちます。忠順は、いつも住民のためを考えて行動をした人でした。
こんな話もあります
記録には残っていないようですけれども、忠順は幕府のやり方に不満を持ち、独断で幕府の蔵を開け1万3000石を飢餓に苦しむ人たちに分け与えたと言い伝えられています。忠順は、その後その行為を目付に咎められ代官を罷免となります。恩恵を受けた住民達は恩赦を申し出るもののどうすることもできませんでした。結局、忠順は切腹を申し付けられ、40歳という若さでこの世を去ることになったと言われています。
伊奈神社の場所
この忠順の功績に感謝をする意味で住民達が1867年に祠を建てました。その後、現在の小山町須走に伊奈神社を建て、忠順の銅像を作りました。
いつの時代においても悪いやつがいて、苦しめられる人たちがいるような気がします。そのような中、苦しむ人たちのために正義を貫いた男がいることを我々は忘れてはいけません。須走を通る時には伊奈神社に足を運ばれて、忠順の功績に感謝をされることをお勧めします。神社の前に広い駐車場があります。また、富士山は、いつの日か同じように噴煙を上げることはわかっています。それに備えた体制を作っておくことが必要であると思われます。