つぶやき

小野田寛郎(ひろお)

小野田寛郎(ひろお) 1922年ー2014年 和歌山県海草郡亀川村出身

なぜ、小野田さんについて書こうと思ったか

この2週間ほど、ずっと小野田寛郎さんについて調べていました。

昨今のコロナ禍に対するSNSでの発言を見ていると「日本人はこんなだったかな」と思わざるを得ない発言が目につきました。そこで昔の日本人の魂みたいなものをこのブログで書けないだろうかと思いました。

自分には、ずっと昔に読んだ本で、このもともとの日本人が持っていたであろう(魂と呼んで良いものかよくわかりませんけれども)精神を感じ感銘を受けた文章があります。この言葉を発した人が小野田寛郎さんだったからです。

私は戦場での三十年間、「生きる」意味を真剣に考えた。

戦前、人々は「命を惜しむな」と教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は「命を惜しまなければいけない」時代になった。何かを“いのちがけ”でやることを否定してしまった。覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。

だが、死を意識しないことで、日本人は「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。

これまで、このブログで過去の偉人を紹介をするたびに、その「人となり」にまで触れる調査ができたら良いなと思いながら、それができずに単なる事実の紹介に終わっています。そこで、今回は可能な限り「人となり」みたいな部分に触れたいと、いろいろ調べました。

しかしながら、その結果は想像していたものとは違う結果になってしまいました。今まで自分が思っていた小野田さんは、本当の小野田さんではないかもしれない。そう思うようになったのです。

何をやった人なのか

自分が子供の時の出来事であった事もあり、みんなによく知られている人だと思っていました。しかし、改めて考えてみると40代以下の人には知らない人が結構いるかもしれません。そこでまず簡単に何をやった人なのかを紹介します。

大東亜戦争が終結し日本が高度成長を遂げている時代に南の島から兵隊さんが帰還されるということがありました。1972年にグアム島から横井正一さんが帰還されました。日本軍が無条件降伏をしたことを知らずに28年もの間ジャングルに作った地下壕などで生活をしていたところ偶然現地の住民に遭遇し日本への帰還となりました。

余談ですけれどもポツダム宣言で日本が降伏したと思っている人がいますけれど、降伏したのは日本軍です。

それから2年後の1974年、フィリピンのルバング島から帰還をされたのが小野田寛郎少尉です。

小野田さんは、1944年に陸軍中野学校二俣分校で残置諜者(スパイ)の教育を受け、フィリピンのルバング島に派遣されます。そこで30年もの間、ゲリラ活動を行ます。小野田さんが帰還されるまでに幾度となく捜索隊を出し、ビラを巻いたりしたものの一向に見つかる気配がありませんでした。もう無理なんだろうと思っていたところ、当時24歳の鈴木紀夫青年がルバング島で小野田さんと出会ったことが大きなニュースとして報道されました。

横井さんが帰還された時は、敵に見つからないようにジャングルの中に身を潜めていた人が救助されたと言った印象を持ちました。当時「恥ずかしながら帰って参りました」と言う言葉が流行語になった記憶があります。

一方で小野田さんの帰還に関しては、眼光、姿勢が物凄く、先日まで戦闘中で、まさに本物の戦士の姿を見た気がしました。それもそのはず、上官からの任務解除の命令が下るまでは戦争中なのだと思っておられたようです。その姿は、まるで祖国を守るために大東亜戦争を戦った多くの日本人の姿を象徴するものでした。その時の映像はYoutubeで見ることができます。

それに引き換え今の日本人はいったい何を甘えたことを言っているのでしょうか。こんな奴らのために俺たちは命を捧げたのではないぞと英霊の皆様に怒られてしまうのではないかと思います。

衝撃の事実を知る

小野田さんに対しては子供の時の記憶しかなかったものの、10年くらい前に再び小野田さんに興味を持って、「たった一人の30年戦争 小野田寛郎著」と言う本を読みました。日本人の精神を絵に描いたような人で立派な方だと思いました。

今回このブログを書くにあたり小野田さんについて調べていたところ、この本のもとになった小野田さんの手記「わがルバング島の30年戦争」は、小野田さんが書いたものではなく津田信と言うゴーストライターが書いたものであることを知りました。津田さんは、小野田さんが帰還されて、すぐに出版社の社長の別邸(静岡県伊東市)で小野田さんと約2ヶ月の間生活を共にして手記を書きました。この津田さんであれば小野田さんのことを知っているのではないかと思いました。ところが津田さんは1988年に亡くなっていました。しかし、手記には書かれていない(書く事ができなかった)小野田さんを書いた「幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月 津田信著」と言う本がある事がわかりました。

読みました。小野田さんに恨みでもあったのではないかと言う内容の本でした。手記が出て3年後の1977年に発行された本なので当然小野田さんも見ていると思います。この本に書かれた内容が事実に反する事であれば、おそらく小野田さんは黙っていなかった事でしょう。

実際の小野田さんは、意地っ張りな性格だったようです。また、帰還後、チヤホヤされた事もあってか傲慢なところがあったようです。津田さんの個人的な感情もあってそう感じるのかもしれませんけれど、それを差し引いても考えさせられるものがあります。

小野田さんはルバング島で100人以上殺傷したと証言をしています。そのうちの殺人は30人くらいと言っています。戦争期間中のことで、やるかやられるかの状況の中なので戦闘行為の一環(小野田さんは帰還に際しマルコス大統領の恩赦を受けています)と言うことになっていますけれども、一部そう取れないことをしています。

武力による戦争は、本来戦闘員と戦闘員の戦いなのであって非戦闘員に対しての殺戮行為は許されるものではありません。アメリカが日本に対して行った行為(原爆投下、東京大空襲、市街地攻撃など)はGHQの洗脳行為によって戦争だと信じ込まされていますけれども、明らかな大量虐殺と言えます。

話がそれましたけれども、小野田さんは、ルバング島に潜伏している時にある村の副村長から何度も犬をけしかけられました。それに怒った小野田さんは三日間つけ狙ってひとりになったところを見計らって殺しています。

まず膝を狙って一発撃ち、歩けないようにしておいてボロ(蛮刀)でたたっ斬ってやった。その野郎、腕で顔をかばいながらいざって逃げようとしたが、こっちは日頃の恨みで容赦しねぇ…

津田さんは、手記を書くにあたりルバング島を訪れます。そこで島民から村の区長をやっていた人がボロ(蛮刀)でなぶり殺しにされて発見されたと言う話を聞いています。その島民は、「小野田さんに殺された島民はみな銃で撃たれているので、この事件は小野田さんがやったものなのかどうかわからない。日本に戻ったら小野田さんに確認して欲しい」と言うのです。

おそらく事実なのだと思います。小野田さんが射殺した島民一人ひとりに関しての状況はわかりませんけれども、少なくともこの一件は許されるものではないでしょう。このような話を聞くうちに津田さんは小野田さんにある種の嫌悪感を抱くことになります。その人の書いた本なので、100%信用するのはどうかと思うもののこの件だけは小野田さんと言う人を正しく表現しているのではないかと思いました。

津田さんは、「小野田さんは帰還することになるまで終戦を知らなかったと言うのは怪しい」と言っています。確かに、小野田さんは奪ったラジオや投下した多くの新聞などから状況を良く知っていました。競馬の競走馬の名前まで知っていたと言うから驚きです。小野田さんは、そこで知った内容は、すべてが真実なのではなく自分を誘き出すための敵の謀略なのだと思っていたと言っています。

どこまでが本当なのか今となってはわかりません。

ルバングのジャングルの中で命を狙われながら30年もの長い間、生き抜いたと言う事実に対しては敬意を表します。しかし、……。

命がけで「生きる」と言うことはきれい事ではすまない話なのかもしれません。

本当の人となりというのはネットで調べたり伝聞ではわからないと思いました。それを伝える人の私感が入ったり誇張されたりする可能性が多分にあると思います。よって、これから調べようと思っている偉人(故人)の本当の人となりを調べるのは無理なのだという結論に達しました。

こんな話もあります

  • 小野田さんは、横井庄一さんと会うことを拒否しました。「自分は戦っていたのであって穴に隠れていたわけではない」と横井さんと一緒にするなとばかりに言い放っています。
  • 国からの見舞金100万円と義援金は受け取らず靖國神社に寄付しています。その行為に感銘を受けた国民から多くの手紙が届きました。
  • マラカニアン宮殿で行われた投降式でマルコス大統領に軍刀を差し出したものののマルコス大統領は、その軍刀を小野田さんに返しました。

言い訳

小野田さんの人となりを知りたくて、たくさんの文献や動画を見て、かつ知ってしまった想定外のジジツをどう伝えようかと頭の整理をしているうちにかなりの日にちが立ってしまいました。もう少し軽く行こうと思います。

 

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