概要
養蚕・製糸業の先進地である群馬県富士見村(今の前橋市)出身。それまでは捨てられていた玉繭を使えるようにしたばかりか、独特な風合いを持つ価値のある生糸にする技法を考え出し、豊橋で糸紡ぎの工場を建設した人です。ただし、その人生は波乱万丈で、働くことを尊び八十歳を過ぎても製糸場内を見回り自ら糸を引くような人でした。
玉繭:2匹の蚕が一つの繭を作ったもの。約1割の割合でこの玉繭になる。使い物にならずクズ繭とも呼ばれていました。
どんなことをやった人なのか
製糸工業が盛んであった群馬県で生まれます。母親から糸紡ぎを学び15歳で女工になりました。17歳で結婚をしたものの、夫の暴力で生傷が絶えす結婚生活4年の間に3度の流産に会います。やっと授かった子供(長女よね)は盲目でした。夫は酒飲みで志ちが座操りで稼いだ金をすべて酒代に使うような人でした。
盲目の子供をやむなくおいて中島伊勢松(のちの徳次郎)と旅に出ます。(駆け落ちという記述が多くみられますけれども、違うという説もあります) 二人は、お伊勢参りと称して二川の宿場に泊まります。それまで三河地方では、繭を作る技術はあっても糸を作る技術がありませんでした。地元の人たちに懇願をされ志ちは徳次郎と二川で製糸業に専念します。
その後、伝染病が流行し戸籍のない人の居住が許されなくなったため、徳次郎は大岩寺の住職二村洞恩に頼んで偽の戸籍を作ってもらいます。しかし、それが発覚し、二人とも懲役刑を受けました。病弱だった住職は釈放をされるものの投獄が原因で亡くなります。それを知った徳次郎も自ら食を絶ち亡くなります。
志ちは、徳次郎の名前をとって糸徳製糸工場を立ち上げました。 ところが、よそ者であった志ちたちには、生繭(1つの蚕が1つの繭を作ったもの)は分けてもらえませんでした。 しかたなく、それまで捨てていた玉繭から糸を紡ぐことに取り組み、試行覚悟の結果、糸を紡ぐことに成功しました。この玉繭からとった糸を玉糸と名付けました。志ちの努力の結果、座繰りの自動化に奮闘した朝倉さんの功績もあり、豊橋は全国シェアの5割を占め、生産高1位となります。
志ちは、製糸場だけでなく従業員を対象とした青年学校を開設します。その思いは二川幼稚園として今に至ります。
小渕志ちの言葉
この工場がなあ、立ちいかんで、もし人手に渡っても仕方はないが、渡す時は、この工場は婆々つきで買ってもらうんだから、それは承知しておいてもらいたい。私は飯と汁さえあればいい。 贅沢なことは言わんのだから。婆々つきの工場だからのう。
自分の悲しみは自分だけの悲しみで、人の悲しみではない。それを語ったとて何になろう。人が我が悩みを手伝ってくれられるものではないから、話すことは無用のことだ。
生きることは学ぶこと
他にもこんな話があります
陸軍特別大演習御統監に際し、名古屋離宮に於いて陛下に拝謁を賜わった際、唯一参加した女性が志ちであり、記念写真の隣には豊田佐吉が写っています。
志ちが41歳の時に前橋の鍼灸按摩師を宿場に呼びます。しばらくは黙って揉んでもらっていましたけれど、「まだわからんのか」と言います。按摩師は、すぐに自分の母親であることを感じます。20歳になった長女よねでした。
岩屋公園には志ちの銅像があります。大東亜戦争中、銃弾の製造のために銅像は供出させられます。しかし、台座だけは残っておりました。この台座に対し1986年に元従業員が資金を出し合って銅像を再建しました。
今後の訪問予定
岡谷蚕糸博物館 シルクファクトおかや(長野県)、愛知県図書館、豊橋民族資料館、石川繊維資料館(愛知県)、大岩寺(墓地)、豊橋市二川宿本陣資料館(一度訪問したものの志ちの資料が置いてあることに気づきませんでした)
今では、志ちの貢献により盛んになった製糸場はなくなり、その功績は消え去ろうしています。日本にはこのような志を持った女性がいたのだということを語り継ぎ、誇りに思うべきだと思います。