最近、阿頼耶識(あらやしき)という言葉を知りました。
この言葉の意味は後ほど書くとして、今までずっと考えてきたことが正しいことを後押ししてくれるような言葉でした。これまでの考えてきたことを簡単に整理してみると以下のようになります。
この投稿にあるように、いつの頃からか人間の「意識」について深く考えるようになりました。
旅をしていて、人間の「意識」は、この世界のすべてとつながっているのではないかと思うようになりました。ここに書いたように、それは量子力学の「超ひも理論」という仮説の「ゼロポイントフィールド」という概念に通じるものがあることを知りました。
その後、考え続けた結果、それまで意味がわかっていなかった仏教の「空」が、この考えを指していたのではないかと気づきました。
そして、自分の思考のはるか先を行っていると思っている苫米地博士も、同じような考えをされていることを知りました。ただし、今回も自分のはるか先を行く深い考察に基づいてです。
そして、最近になって読んだ「生きがいの創造」(飯田史彦著)を元に「意識」とは、次のようなものではないかと書きました。
自分の心の中の奥深いところには、連綿と続く自分の過去(前世だけでなくその前を含む過去生)の歴史が刻まれていて、その足跡や道筋を記したものを基礎として、その上に普段、見たり、聞いたり、考えたりしていることが載っている、その全体をいうのだろう
そして、最近知ったこの言葉「阿頼耶識」が、ここで言うところの基礎となっている概念に近いことを知りました。
「阿頼耶識」とは、Wikipediaによれば、
個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識のこととされる。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識の最深層に位置するとされる
と記されています。
これを図に表したものが、これです。
Wikipediaより引用 CC BY 3.0
自分は物理学者でもなければ、仏教徒でもありません。しかし、自分が考えてきた「意識」が、科学の世界で論じられる仮説と通じるものがあったり、仏教の世界で悟りを開いた人が考えた概念に似ていることを知ったことで、考えてきたことは正しいのではないかと後押しされた気持ちになりました。
自分が何のために存在して、何をしなければいけないのかが、この阿頼耶識に刻んであるのだろうと思います。しかも、刻んだのも自分なのだと思っています。いったい自分はここに何を刻んだのだろう。もう少し考えてみたいと思っています。
ふとしたきっかけで知った「阿頼耶識」という言葉、真に意味するところまでは理解できていないのだろうと思っておりますが、面白いと思っています。